2026-07-31
境界知能の支援は意味がないのか|制度もサービスも機能しなかった26年の記録
はじめに
私の弟は26歳で、IQは68です。診断は軽度知的障害で、家族の中では「グレーゾーン」と呼んでいます。私は当事者ではなく、母が弟を育てるのを兄としてすぐそばで見てきました。
相談に行きました。手続きをしました。勧められた場所に入れました。
それでも、家の中は何も変わりませんでした。むしろ、悪くなりました。
私の家がそうでした。
この記事で書くのは、なぜ制度やサービスが機能しないことがあるのかという話です。制度が悪いという話ではありません。制度には作れるものと作れないものがある、という話です。
大人が全員、よかれと思って選びました
弟は中学を卒業したあと、支援学校に進みました。
学力の問題で普通の高校は難しい。支援学校なら本人に合ったペースで学べて、就労にもつながる。学校の先生も、相談先の人も、母も、私も、全員がそう考えました。誰一人、悪意を持っていませんでした。
入学して1年も経たないうちに、弟は学校から脱走しました。夜中に私が車で迎えに行きました。
そのとき弟は、こう言いました。
「自分は、こんなところにいる人間じゃない」
その後、物に当たることが増えました。母への暴力、8歳下の妹への暴言も出るようになりました。妹のピアノは壊されました。
支援学校が悪かったのではありません。設備も先生も、きちんとしていました。ただ、弟の自尊心が、その選択に耐えられなかった。 大人が全員で選んだ「本人のための正しい選択」が、本人の中では「自分はここに入れられる側の人間だ」という宣告になっていました。
私たちは、そこを見ていませんでした。
思春期以降を扱った資料が、ほとんどありません
弟が本格的に荒れ始めたのは、中学卒業後です。この時期の資料を、私は後から探しました。
厚生労働省が令和3年に出した「ペアレント・トレーニング支援者用マニュアル」という資料があります。全114ページで、発達に特性のある子の親をどう支援するかがまとめられています。
このマニュアルの中身を数えました。
- 「青年期」「中学生」「高校生」「暴力」「反抗期」という語 ── いずれも0件
- 「思春期」 ── 4回だけ。しかもうち2回は「思春期からは、本人の意向も聞きます」という同じ一文が本文と講義スライドに重複しているもので、実質的な記述は3箇所です。独立した章や単元はありません
つまり、国が用意した親向けの支援マニュアルは、子どもが小さいうちを前提に作られています。 中学生以降、本人が話せるようになり、意志を持ち、支援そのものを拒否し始める時期のことは、ほとんど書かれていません。
これは資料を作った人の怠慢ではないと思います。小さいうちに手を打つのが効果的なのは確かです。ただ結果として、一番きつい時期の親が読むものが、少ない。
学校の支援は、在籍している間だけです
文部科学省が令和5年度に行った「特別支援教育体制整備状況調査」という調査があります。学校に支援の体制がどれだけ整っているかを調べたものです。
| 支援体制の項目 | 公立 | 私立 |
|---|---|---|
| 校内委員会の設置 | 99.2% | 51.2% |
| コーディネーターの指名 | 99.5% | 60.9% |
| 合理的配慮の明記 | 93.6% | 52.6% |
※「コーディネーター」は特別支援教育コーディネーター。
公立はほぼ100%整っています。私立は半分程度です。
ただし、この数字の読み方には注意が必要です。この調査に回答した私立11,144校のうち、約80%は幼稚園・こども園です。 私立高校や私立中学だけを取り出した数字ではありません。そして「私立=お金に余裕のある家庭が行くところ」という意味でもありません。
そのうえで言えるのは、支援の体制は学校ごとにばらつくということ、そして在籍している間しか続かないということです。
2024年4月からは、私立学校にも合理的配慮を提供する法的義務が生まれました(改正障害者差別解消法)。それでも東洋経済の2024年12月27日の記事には、進学フェアで「うちはそういう生徒を対象にしていない」「合理的配慮? 何ですかそれは」と言われたという保護者の声が載っています。
ただしこれは匿名の一件の証言で、統計ではありません。 すべての私立がそうだとは言えません。
報道されている事例では、私立小学校が在籍していた児童に公立への転校を提案し、断られたあとに退学処分にして、660万円の損害賠償請求訴訟になったケースもあります。
手のかかる状態になると、対応が家族に戻ってきます
厚生労働省が令和4年に開いた強度行動障害に関する検討会の資料に、こういう記述があります。
自治体が集めた887ケースの調査で、暴力や暴言を理由に事業所が受け入れを断り、対応がそのまま家族に戻っていたケースが報告されています(111ケース中20件)。
この調査の対象は、最重度・重度の知的障害がある方たちです。資料の中に「境界知能」という記述は1件もありません。 ですから、この数字を境界知能の子にそのまま当てはめることはできません。
私が言いたいのは数字のことではなく、構造のことです。支援の仕組みは、手がかからない状態のときには機能しやすく、一番手がかかる状態になったときに受け入れ先が細る。 その負荷は家族に戻ります。
弟が荒れていた時期、私の家に来てくれる人はいませんでした。
制度が作れるもの、作れないもの
ここまで書いてきて、私が思っていることは一つです。
制度は、お金の流れと、場所と、手続きを作れます。
手帳が出れば使えるサービスが増えます。学校には支援の担当者が置かれます。相談窓口はあります。これは本当にありがたいものです。使えるものは使ったほうがいい。
ただ、制度は「本人の状態」を作れません。
弟に必要だったのは、支援学校という場所ではありませんでした。「自分はこんなところにいる人間じゃない」と思ってしまった弟の自尊心を、誰かが継続して見るべきでした。
そして、それを担当している人が、どこにもいませんでした。
- 行政は、担当者が変わります。 数年で人が入れ替わり、経緯はゼロから説明し直しになります
- 医師は、診察室の10分です。 家で何が起きているかは、親が話した分しか伝わりません
- 学校は、在籍している間だけです。 卒業した瞬間に関係が切れます
- 事業所は、契約している間だけです。 そして手がかかると細ります
その家庭を、始めから今まで、継続して知っている人が、誰もいない。
これが、支援を受けても「意味がなかった」と感じてしまう理由だと、私は思っています。一つひとつの制度は機能しています。ただ、それらは全部「点」です。点をつなぐ人がいないと、家族は毎回ゼロから説明することになります。
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では、支援は意味がないのか
意味がない、とは思いません。
弟は今、一人暮らしをしています。自分の給料で妹にプレゼントを買い、貯金をしています。10年前の私たち家族からは想像できなかった状態です。
そこに至るまでに使った制度もあります。相談に乗ってくれた人もいます。それがなければもっと悪くなっていた場面は、いくつもありました。
ただ、弟が変わったきっかけは、制度そのものではありませんでした。
弟が「アラスカで生物ガイドになりたい」と言い出したとき、母はそれを笑いませんでした。中卒で借金があって仕事が続かない26歳が、そんなことを言い出したのです。普通なら「まず現実を見なさい」と言うところです。
母は言いませんでした。
私が見ている限り、弟が変わりはじめたのはそこからです。これは研究でも統計でもなく、私が見てきた範囲での見方です。それでも、制度の何かが変えたのではなかった、ということだけは確かです。
ネット検索に依存している人へ
「支援に意味はあるのか」と調べてここにたどり着いた方が知りたいのは、たぶん制度の話ではないと思います。
これだけやったのに、なぜ何も変わらないのか。 その答えが欲しくて検索しているのだと思います。
私の答えはこうです。
変わらないのは、あなたのやり方が悪いからでも、努力が足りないからでもありません。制度は点でしか関われないので、点をつなぐ役は最初から誰にも割り当てられていないだけです。
そして、その役を今やっているのは、たぶんあなたです。行政にも学校にも病院にも引き継げないまま、一人でやっています。
うまくいっていないように見えても、それはあなたが失敗しているのではありません。制度上、誰も担当していない仕事を、資格も研修もないまま引き受けているだけです。
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